貞山・北上・東名運河事典
ていざん・きたかみ・とうな
11-(4)-②-c 寒風沢島
塩竈湾(松島湾)内の浦戸諸島の桂島、野々島(ののしま)と渡り、寒風沢(さぶさわ)島に着く。
※市営の定期船を使い、直接この島に来ることはもちろん可能。
寒風沢島への無料渡船。電話で連絡するとすぐに来てくれて、たった一人にでも対応してくれる。またまた少し恐縮しながら、対岸の寒風沢に運んでもらった。それにしても、ありがたい渡船。定期船の利用では、こんなにも順調に島々を移動はできないのだから。
▲野々島学校下の浮桟橋(ここから渡船で寒風沢島に渡してもらった。)
▲寒風沢水道(左は野々島)
▲寒風沢港の浮桟橋
◆仙台藩の解体と北海道移住◆
1868年9月「明治」と改元され、明治政府がスタートした。これに伴い、1869年(明治2年)3月5日仙台藩は版籍奉還を新政府の弁事局に申し出て、6月17日に聞き入れられ、ここに仙台藩は解体した。藩籍を失った旧家中の一部は新天地を北海道に求め、この寒風沢と石浜(桂島)の港から出帆していったのである。
・明治3年2月29日出帆 旧亘理領主 伊達邦成と家臣団等 250人(第一回移住) 官船 長鯨丸 出帆港:寒風沢
・明治4年2月7日出帆 旧亘理領の一行 788人(第三回移住) 傭船 猶龍丸 出帆地:石浜(桂島)
・明治4年3月18日出帆 旧岩出山領主 伊達邦直と家臣団 160人(第一回移住) 傭船 猶龍丸 出帆港:石浜(桂島)
※旧岩出山領の第一回移住者は、老人と子供は中新田街道を進み、四日市場の宿から高瀬舟に乗り船越(鹿島台)
へ、他は徒歩等で古川~小牛田~涌谷を抜けて船越に着く。ここで合流し、東名の亀岡に進み、地場堀から小舟
で石浜に渡っている。領主邦直は、寒風沢から小舟で石浜に渡っている。
・明治5年2月23日出帆 旧岩出山領の一行 182人(第二回移住) 出帆港:石浜(桂島)
・明治12年4月10日出帆 旧岩出山領の一行 210人(第三回移住)
※ 旧亘理領の第二回移住は、陸路南部(青森県)の大間に至り、ここで乗船して函館に上陸、さらに陸路と舟路をとり、有珠にたどり着いて
いる。
※ 旧亘理領からの移住はその後数回にわたり、合計1362戸 約8千人が北海道に移った。
※ このほか北海道には涌谷・白石等の各支藩からも移住し、新天地の開拓に当たった。
出典:宮城県史第二巻、亘理町史三-二、岩出山町史二-一
先ずは、『造艦碑』(建立:安政4年 縦2.3m 横1.2m 塩竈市指定文化財)。
寒風沢の地は、島々に囲まれた波静かな天然の良港として、江戸時代には千石船が発着する伊達藩の交易拠点として栄えたところである。ここで、本格的な西洋式軍艦「開成丸」が建造されている。この碑は、仙台藩の命により、三浦乾也(みうらけんや)が建造に携わったことを記念し、その門人たちによって建立されたものである。
『塩竃市史 Ⅳ』には、次のように記載されている。
「此碑は仙臺藩が西洋型軍艦帆船開成丸を此地に於て建造せる記念碑である。當時都合ありて建立せずして造艦地山崎海岸に伏せてあつたが明治二十七年宮城郡長大童信太夫、伊達伯爵家々扶作並清亮等の諸氏相圖り井内の石工龜井氏に命じ礎石を造らしめ篆額を刻し此地有志に嘱し御城米倉廩跡地北隅に建設した。」
造艦碑
寒風澤嶼造艦碑 涌谷伊達安藝平邦隆篆額 江戸姫邸儒員菅野潔撰文并書
自宇宙形勢之變也造艦寔爲急務而艦期干洋製矣特憾其傳習之永久而衆惑之難解
焉耳仙臺府學捴督大槻文禮慨然奮力干此嘗造小艦数隻干鹽竈浦衆未之信安政乙
卯之歳 藩公將大與造艦之役特旨命文禮督之文禮受命區畫時無良工遂建白遣
小野寺君鳴徃江都及豆相間博詢歴觀以求其製會都下大震上下騒擾事始阻格一日
君鳴投予家談及製艦事予曰目今都下人材亦富獨可稱爲苦心良工者三浦乾也其人
也君鳴喜一見奇之薦之千藩 公大悦特召優遇乃延之本州委任蕫事丙辰八月始
開廠干寒風澤嶼乾也其徒鳩工服役登登憑憑口授手畫千板萬釘究極精緻騎歳而
艦成儼然弗列戞多艦也闔藩咸喜初艦之未成群議紛騰多沮之者 公聴察無聽文
禮及一二有司又従而翊賛之艦既成喧傅遠邇閭婦里童莫不稱其能也乾也曰吾聞先
鳴者其音遠東北諸侯之造艦以此擧爲嚆矢而吾遭遇干斯固幸矣雖然他日傳習愈精
航海愈熟良工接踵而出安知今日之隋珠不爲他日之遼豕乎則吾之獲譽干今日者非
幸而取嘲干後人斯爲至幸也吾竊爲國家望焉予聞之曰乾也不但其工之精也其識
亦卓矣先是乾也抱荊璞干陋巷屠龍不售毫無慍色一旦得獻之明主而不自侈其勞豈
非奇男子乎抑世無伯樂冀駿死攊苟非得 公之英明武斷與有司者之蜜勿臣鄰則
乾也無所展其驥足而君鳴亦不得與而有力也於戯夫事固有出干偶然而功及久遠者
焉若今日之事則豈非天之待斯藩以一新氣運者乎耶予北游歸途過嶼及下艦之期心
竊喜而賀之遂記其顚末以傳干後蓋亦乾也之志也
安政四年季歳在丁巳秋八月 江戸三浦乾也門生建石
※参考:『塩竃市史Ⅳ』、井上元一著『いしぶみ紀行 塩竃編』
【開成丸】
建 造:安政3年(1856年)8月26日着工~安政4年(1857年)7月14日進水
11月完成
大きさ:全長110.0尺(33.33m) 幅25.0尺(7.58m)
深さ14.5尺(4.39m)
マスト高さ105.0尺(31.82m)
そのすぐ手前には『津太夫と左平』を紹介する掲示があった。二人は、わが国で最初に世界一周を果たした4人のうちの二人。残り2人は、奥松島の室浜の儀兵衛と多十郎。
彼らの漂流体験を聞き書きしたのが蘭学者 大槻玄沢たち。こうしてまとめられたのが『環海異聞(かんかいいぶん)』。彼らによって持ち帰られた海外情報の記録は、鎖国時代にあったわが国にとって、その後の世界認識の発展に大きく貢献したとされている。
次は、『日和山』『しばり地蔵』『十二支方位石』。港から200mほど歩く。
▲しばり地蔵
▲十二支方位石
【しばり地蔵】
寒風沢港が繁栄していた頃、島内には遊郭があって、船出しようとする男たちを引きとめようと、遊女たちがお地蔵様を荒縄で縛り逆風祈願したと伝わっている。
【十二支方位石】
直径45cm高さ82.5cm。港の待合所わきには複製されたものが展示されている。
▲十二支方位石(港の待合所わきに設置)
さらに先に進むと、寒風沢水道を通る船を見張る『砲台場跡』に着く。案内板には次のように記載されている。
脇には、船入島弁財天大神社、船入島龍神大権現社という小さなお社(祠)が二つ建っている。
【砲台場跡】
慶應3年(1867年)、仙台藩では寒風沢港を海防上最も重要な地点として、寒風沢、石浜水道がよく俯瞰できるこの地に砲台を築造した。「加農砲」三門を据え、弾薬庫、見張所を備え、また沖砲台として船入島には鉄の巨大砲二門を置き、別に石浜崎黒森に一門を据え、藩より大砲方士卒五十人余りが、寺院松林庵に駐屯して警備にあたった。”
▲砲台場跡
『寒風沢神明社』に移る。この社は、平成9年修築、建造様式:一間社流造り・向かい拝一間、銅板葺。祭神は、天照皇大御神、豊受皇大神。真新しい鐘堂もある。鐘そのものは、盗難にあったことから弘化2年(1845年)に再調されたものという。木の根元に配置されている祠(ほこら)には、なんともいえない趣がある。
▲神明社
▲神明社の鐘堂
次は前浜。
海岸線の黒松並木がとても美しい。砂浜では、家族連れが釣りとバーベキューを楽しんでいた。
浜には、昭和35年5月24日未明に三陸沿岸を襲ったチリ地震津波の被災の地の碑(寒風沢の農漁協・同区有志が、その被害状況を後世に伝えるため建立:昭和51年7月)が建っている。
【チリ地震津波被災の地碑文】
昭和35年5月24日黎明を破って来襲した津波は寒風沢沖に面する前浜・韮浜・要ノ浜・元屋敷の各堤防を決壊し怒濤と化して揚陸せり。水田17.919 ヘクタール、畠地4,506ヘクタールが埋没冠水し、倒壊家屋1戸、浸水家屋二十数戸和船十数隻大破し、電話、電灯の送電架線柱の倒壊、断線により寒風沢 を始め浦戸全島は孤立化せり、島民は只茫然自失あるのみ。漁業協同組合の発議により、区長、消防団長と相諮り津波復旧対策本部を結成、塩竈市浦戸東部漁業 協同組合内にこれを設置し、被害の調査、確認、飲料水の確保、井戸の衛生消毒、通信連絡等、塩竈市役所津波対策本部との緊密なる連携を保つこと久し。これ よりさき決壊堤防の復旧作業にとりかかれり。耕地の荒蕪塩害を怖れる地元住民はもとより、隣接桂島、石浜、野々島、吉津浦地区等より消防団員、一般人を含 む多数の応援と、陸上自衛隊松島航空基地よりヘリコプターが飛来し被災状況の連絡にあたれリ。
一方塩釜海上保安部内火艇、地元動力漁船により堤防復旧用米俵13,000余俵を塩竈市役所水産農商課の指揮で搬入宮城県仙台土地改良事務所の技術指導 に依り元屋敷堤防の応急築堤工事を完了せり。この挙に臨み、本県三浦義男知事は浦戸諸島を海岸保全法の指定地域となせり。
昭和39年7月、桃和田、元屋敷、大迎、平戸、前浜及貝ノ浜囲い、23ヘクタールを土地改良工区に定め、塩竈市浦戸東部農業協同組合営により土地改良事 業が着工され、昭和40年3月完成せり、ために営農改善への端緒となりぬ。まことに災を転じて福となす喩えの如し。ここに寒風沢高潮対策堤防第一次工事の 完工を記念し、チリ地震津波来襲16周年を省みて島民の復旧への情熱とこれをうけて国政に結んだ故衆議院議員愛知揆一先生の霊に捧げ人々への警鐘となす。
昭和51年5月25日
出典:塩竈市ホームページ
『元屋敷浜』に到着。途中の湿原には、野鳥の群れ。足元の水路には沢山の稚魚。時折、かなりの大きさの魚が猛スピードで泳ぎまわる。“ガマノホ”が光に映えて、これまた美しい。この浜は、潮干狩りができるらしい。とても穏やかで眺望も良い浜である。
▲元屋敷浜
▲元屋敷浜
寒風沢と奥松島・宮戸島とを分かつ『鰐ヶ淵水道』、『美女浦』までは少し長い距離を歩く。この浦は、名前の通り美しく魅力的で、”深窓の令嬢”と言うにふさわしい。
▲鰐ヶ渕水道の対岸は奥松島・宮戸島
▲美女浦
来た道を港の方向に戻り、『六地蔵』へ。
道が二手に分かれるところにある。“あの世”と“この世”ということではないのだろうが・・・。六地蔵とは、地獄、餓飢、畜生、修羅、人間、天上という六道輪廻の中の衆生(しゅしょう)教化・済度(さいど)の菩薩ということか。すぐ右手の丘の上には、小さなお社がある。
▲六地蔵
▲六地蔵とともにおかれた半跏思惟像
こちらは、『不動明王』。
狭い通りを抜けた民家に裏山にある。参道はやや荒れていたが、お堂というよりは集会所のような建物、「真言宗松洞山寒山寺」とあり、寛永年間(1600年代)にできたお寺とされている。大きな木の根元にある石碑、竹林を背にした墓石が、興味深い。