貞山・北上・東名運河事典
ていざん・きたかみ・とうな
12-(1)-③ 明治潜穴と高城川
元禄6(1693)年品井沼干拓が仙台藩の直轄事業として始まり、潜穴工事が進められた。元禄11(1698)年に工事が完了。元禄15(1702)年には品井沼の排水開田事業が一段落し、藩の直轄が解かれている。
その後、文久元年(1861年)までに6回にわたる大改修工事が実施された。しかし、この最後の改修から20年を過ぎたころには、元禄潜穴には土砂や草木、流木がつまって排水は極めて悪くなっていた。鳴瀬川の河道も変わり、堤防は崩れ荒れ果てていた。一度大雨が降るとたちまち品井沼の水は周り一帯にあふれ、鳴瀬川の水は小川を逆流して毎年のように水害を繰り返した。
宮城県令松平正直は、元禄潜穴の改修の必要性について大蔵卿の大久保利通と会談を重ね、改修工事費について国の補助を受けることに成功し、明治13(1880)年7月から9月にかけて改修工事を行った。
宮城県令松平正直は、品井沼の問題解決にはさらに詳しい調査とそれに基づく綿密な計画を建てる必要があると考え、内務省と会談を続けた。この会談が実を結び、明治15(1882)年に内務省の御雇技師セ・イ・ファン・ドールンによって実測調査が行われることになった。
しかしドールンの報告よると、次のような理由により排水干拓は不可能とされたのであった。ドールンの実測に大きな期待をかけていた松平県令や沿岸村民の失望は大きかった。その後10年の年月が過ぎ、元禄潜穴は再び土砂等が堆積し、水害が繰り返されるようになった。沿岸村民の窮乏はいっそう増すばかりであった。こうした中で、郷土を見捨て他に新天地を求めるか、残って品井沼の水を治めるか二者択一を迫られた人々は、自らの力で克服していく道を選んだのである。
▲明治潜穴吐口にある案内板の一部から転載
▲高城川サイフォン入口:こちらは鶴田川。右の土手裏は吉田川。 2010.05.09 ▲吉田川の下をくぐってこちらに流れ出て、高城川となる。 2010.05.09
※品井沼地区にはサイフォンが5本ある。鶴田川第一・同第二・大迫川・小迫川・高城川(吉田川)サイフォン
▲高城川の桜並木 2016.04.12
▲明治潜穴呑口 2016.04.12
▲明治潜穴公園 2008.08.16
▲明治潜穴吐口下流の高城川 2008.08.16
▲八幡神社 2010.05.09
▲高城川(明治潜穴吞口上流部) この画像の右岸側が桜並木 2008.08.16
▲明治潜穴公園内の鎌田三之助翁顕彰碑 2008.08.16
▲明治潜穴吐口 2008.08.16
▲明治潜穴吐口の高城川上部に設置された治水興農之礎碑
石碑に刻まれた文字の全文は、次のとおり。かなりの長文で、宮城県、関係町の官民あげての明治潜穴に寄せる思いの強さ、深さがうかがわれる。
▲明治潜穴吐口にあるパーゴラ 2008.08.16
品井沼開墾台覧記念碑(東宮殿下一分間停車記念の碑) 場所:宮城県宮城郡松島町根廻
▲東宮殿下一分間停車記念の碑(広場)
※左端の標柱は「元禄潜穴穴尻」を示す。
▲中央が鎌田三之助翁
上の解説板に記載されている内容は、次のとおり。
東宮殿下一分間停車記念の碑
明治潜穴工事施工にあたっては、工事続行派と工事中止派との対立の中、中止派の感情が根強く残っていた。
明治四十一年十月に東宮殿下(後の大正天皇)が、奥州地方を行啓なされるということを知り、鹿島台村長鎌田三之助は、東宮侍従に願い出て殿下の代理人の方の視察を切望した。
ところが、東宮殿下御自らご台覧との報告を受け、鎌田村長はじめ工事続行派は大喜び、明治四十一年十月十三日(三日の誤り)午後三時四十分、根廻上山王地内の鉄橋上にお召し列車が一分間停車しご台覧の栄を得たのである。当時お召し列車が停車場以外に停車することは絶対にあり得ないことであった。
東宮殿下よりのお言葉
「天下の大工事である。中途挫折の事なく
竣工せしめよ」
これ以後工事関係者に動揺はなくなり無事に工事が完了している。
この石碑は、東宮殿下がご台覧された記念として昭和八年九月、品井沼水害予防組合により建立された。
平成二十一年十一月
農村景観・自然環境保全再生パイロット事業
特定非営利活動法人 あぐりねっと21
ねまわりコミュニティ推進委員会