貞山・北上・東名運河事典
ていざん・きたかみ・とうな
9-(2)-②-a 三浦乾也年譜
出典:『幕末の鬼才 三浦乾也』 益井邦夫著 里文出版発行(平成4年5月25日)
(注) 著者のご厚意を得て掲載しています(原書は詳細な内容のため、ここでは抜粋して掲載)。
文政4年(1821) 0歳 ・3月3日、住田清七・スミの長男として江戸の銀座で生まれる。姓は三浦。家は代々徳川家の御家人。
・生後まもなく千葉の稲毛に里子に出される。幼名は藤太郎。
文政7年(1824) 3歳 ・清七の実姉夫婦である井田吉六・タケに引き取られる。吉六は江戸焼物を代表する陶工。
・天保2年(1831)には、浅草寺境内に出店。
・このころから将軍家斉(第11代)に召され、将軍の前で席焼を行うようになった。
(この種のことを行ったのは吉六が最初)。
天保4年(1833) 12歳 ・吉六から製陶の手ほどきを受ける。
天保7年(1836) 15歳 ・終生の師と仰ぐ乾山五世西村藐庵と出会う。
・6月24日、藐庵のもとで吉六らとともに乾山流陶法の修行を行い、「乾」の一字を贈られ、「乾弥」と号す。
・蒔絵師寛次郎、仏師野村源光から各技法を学ぶ。
・小川破笠(おがわはりつ)の破笠細工(はりつざいく)を独学する。
弘化2年(1845) 24歳 ・乾山六世を襲名する。藐庵から「乾山名前譲状」「乾山伝書」など一式を継承する。
・このころ、藐庵の紹介で石井安右衛門仏心の養子となり、石井家の養女栄を娶り、石井姓を名のる。
弘化4年(1847) 26歳 ・石井安右衛門仏心の妻つなとの折合が悪くなり、離縁し、三浦姓に戻る。
嘉永6年(1853) 32歳 ・6月3日、ペリー提督来航。黒船を観に浦賀へ行く。
・蘭書翻訳本を求めて蒸気機関を研究し、蒸気船雛型を試作。
・造艦建白書を書き、老中阿部正弘に提出。
・水戸・津軽・加賀の藩主らに雛型を献上して、造艦の必要性を説く。
安政元年(1854) 33歳 ・幕府から長崎にて造艦伝習をするよう命じられ、8月に赴く。12月上旬まで伝習に励み、下旬に江戸に帰る。
安政2年(1855) 34歳 ・長崎での伝習報告書と図録を幕府に提出。
・造艦下命を言上したが、短期間で修得できるはずがないと信用されず、却下される。
・土佐藩への推挙があるも実現せず。
・水戸徳川家も反射炉築造技術者として招へい(足軽身分)しようとしたが、固辞する。
安政3年(1856) 35歳 ・仙台藩が造艦惣棟梁として招へいする。
・松島湾の寒風沢島で西洋型帆船式軍艦開成丸の建造に着手。
安政4年(1857) 36歳 ・仙台藩、大飢饉で疲弊した堤焼の復興を乾也に託す。陶工庄子義忠と出会う。
・8月、蝦夷地(北海道)開拓の一環として企画された窯業開発のため、箱館に赴く。
・12月25日から松島湾内で開成丸の試験航海を行う。
安政5年(1858) 37歳 ・開成丸の竣功の労にこたえて、伊達藩は御作事奉行格にとりたて、世禄百俵、大番組に召抱える。
・11月、庄子義忠に乾の一字を与え、乾馬の号を贈る。(これにより乾山流陶法が堤焼に根付くことになった。
「乾山楽焼秘書」を模写させる。これが乾馬の縁者針生家に伝わり、こんにちまで活用されている。)
安政6年(1859) 38歳 ・2月12日、開成丸が処女航海に出港。惣棟梁航海按針測量方指南役として指揮をとる。
・仙台藩の依頼を受けて、領内の山々を歩き、亜鉛などの鉱物資源を探る。
万延元年(1860) 39歳 ・暇乞いを願い出て仙台を辞す。
慶応元年(1865) 44歳 ・12月、仙台に行く。乾也への風当たり強く、「改易」を申し渡される。
明治元年(1868) 47歳 ・朝敵仙台藩に内通した嫌疑で糺問処に連行される。8月21日赦免。
明治3年(1870) 49歳 ・ 尚古園焼を創窯する。
明治5年(1872) 51歳 ・武蔵飯能に行き、飯能焼の復興に努める。
明治8年(1875) 54歳 ・向島(墨田区)長命寺に移る。境内の一隅に築窯し、後世に名を残す珠や根付け、印籠、帯止め、刀の飾り
を創作。
明治22年(1889) 68歳 ・10月7日逝く。9日、築地本願寺の末寺妙泉寺墓地に葬られる。戒名 乾隆院大護居士