貞山・北上・東名運河事典
ていざん・きたかみ・とうな
12-(8) 小名木川~隅田川と旧中川をつなぐ舟運の道
小名木川 おなぎがわ
江東区を東西に横断し、隅田川と旧中川を結ぶ全長4.64㎞の河川。
天正18(1590)年の徳川家康の江戸入府に伴い、人口が増加。それによって米や塩などの生活必需物資をはじめ、多くの物資が諸国から江戸に集められるようになった。小名木川は、行徳で生産された塩を江戸に輸送するための運河として開削された。また、 この沿岸運河の整備は、当時の海岸線を確定させ、同時に以北の干潟化の役割を果たした。
川の名は、小名木四郎兵衛が工事を行ったからとも、女木山谷が小名木沢、小名木川に転じたともいわれる。
江戸が大都市化するにつれて、水運に果たす小名木川の役割はいっそう大きなものとなった。寛永6(1629)年には利根川東遷事業に併せて拡幅されると、関東内陸河川の地廻り物資輸送、東北地方諸藩からの江戸廻米など奥川廻し舟運の大動脈としてその機能を果たすようになっていった。小名木川と旧中川、新川の合流地点には船番所が置かれ、航行する船舶の監視にあたった(後に船番所は旧中川との合流点に移転する)。
開削とほぼ同時期に川の北側が深川八郎右衛門により開拓され深川村に、慶長年間に川の南側が埋め立てられ海辺新田となり、以降江戸時代を通じて埋め立てが進んだ。
やがて小名木川を中心に竪川や大横川、横十間川、仙台堀川などの整備が進み、重要な運河の一つとして機能した。
明治時代に入ると、小名木川沿岸一帯はその水運で様々な原材料を運ぶことができることもありセメント製造、化学肥料、精製糖工業、醬油製造をはじめとする大小の工場が建設され、江東地区の工業発展のために大きな役割を果たした。1930年には荒川放水路が完成したが、これに伴い荒川や旧中川、新川の合流地点には「小名木川閘門」「小松川閘門」「船堀閘門」が設置された。
昭和50年代には地盤沈下などにより閉鎖されたが、2005年に「荒川ロックゲート」が完成し、旧中川を経由して荒川への通行が可能になった。
現在は、高潮対策などのため隅田川や荒川とは水門や排水機場で河口部が区切られ、川岸は直立護岸に改修され、隅田川合流点には新小名木川水門、同区扇橋に扇橋閘門が建設されて東西の水位差の調節を行っている。