貞山・北上・東名運河事典
ていざん・きたかみ・とうな
5-(2) 貞山運河(木曳堀)の開削をめぐる主な諸説とその考察
貞山運河のうち木曳堀(木引堀)は、貞山公(仙台藩祖 伊達政宗)の命により、川村孫兵衛が開削したとこれまで一般的に言われてきました。とはいえ、これには諸説あります。そこで、長年にわたり調査・蒐集・分析にあたられた 伊達邦宗公の成果も踏まえ、各説の内容を概観し、整理し、その結果を「四代綱村(肯山公)治世下の寛文年間(1661年~)における開削と解すべきに至った」と先に紹介させていただきました。
しかし、ここには肝心な点の見落としがありました。それは、正保2年(1645年)仙台藩が製作した『奥州仙台領国絵図』に内川の名称で水路が記されていることです。これにより、木曳堀(内川)は当時すでに開削されていたとなります。
そこで今回、仙台藩主や川村孫兵衛の家歴を確認し、先に紹介した内容を改定することにしました。
<改定内容>
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木曳堀は、慶長大津波(1611年)以降~正保2年(1645年)までに、伊達政宗の命を受けた初代川村孫兵衛重吉によって開削
※なお、川村孫兵衛重吉による北上川改修が元和2~寛永3年であることに照らすと、この大工事と同時とは考えにくいことから、
木曳堀開削は寛永3年以降とするのが適切と考える。
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その後、堀の改修や周辺の開田事業は、2代藩主忠宗公の治世下でも継続。それは、2代川村孫兵衛(元吉)に引き継がれていったと解される。
これまた浅学の勇み足、一見解とご承知の上、ご覧いただければ幸いです。
<内容構成>
貞山運河(木曳堀=木引堀)開削をめぐる主な諸説とその考察 ⇒ こちら(PDF)
(内容は次のようなものです。サイズ:A3版) ※図をクリックしても開きます。
<関連資料> ※こちらもクリックで開きます。いずれもPDF文書です。