貞山・北上・東名運河事典
ていざん・きたかみ・とうな
9 貞山・北上・東名運河ゆかりの人たち
川村 孫兵衛重吉 【かわむら まごべえしげよし】 1574~1648
天正2年(1574年)長州阿武の庄に生まれる。算数推理などに精通して毛利輝元に仕える。 慶長の始め伊達政宗に仕え、名取郡下野郷早股を領した。木曳堀の開削、北上川、迫川、江合川の改修、石巻の開港、開田、製塩、植林事業などに多大な功績を残した。これらの功により、禄高は3000石に達したという。寛永15年に隠居、慶安元年(1648年)閏10月石巻釜にて死去。普誓寺に埋葬。法名は普誓寺普徹聖公居士。大正4年11月正五位を追贈され重吉神社に祀られる。
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松尾 芭蕉 【まつお ばしょう】 1644~1694
元禄2年5月10日(6月26日)「おくのほそ道」の途次、松尾芭蕉と曽良は、松島を出発し鳴瀬川を船で渡り小野を経て、矢本宿を通り、淀川橋を渡って大街道から石巻に入っている。石巻では日和山、住吉公園を見物し、四兵衛宅に一泊。翌日、住吉から鹿又道(土田淵といわれた現北上川堤防沿い)を現石井閘門(いしいこうもん)の所を通って、鹿又、飯野川、登米に向かっている。
(参考サイト)
松尾芭蕉の生涯や陸奥(みちのく)の旅については、『芭蕉庵ドットコム』にも詳しく紹介されています。
(注)外部リンクです。 http://www.bashouan.com/
三浦 乾也 【みうら けんや】 1820~1889
江戸の陶工。乾山風の焼物を作り、破笠(はりつ)風の細工が巧みであった。浦賀に入港したペリー率いる黒船を見て造艦の必要性を幕府はじめ諸藩に説く。
安政元年(1854年 33歳)には幕府から命じられ、長崎に行き、オランダ人に洋船製造技術を学んだ。1856年(35歳)、仙台藩に造艦棟梁として招かれ、寒風沢において洋式軍艦『開成丸』の建造にあたった。船の竣工の労にこたえて、後に仙台藩から御作事奉行格にとりたてられている。乾也に陶工を学んでいた庄司義忠に乾の一字を与え、乾馬の号を贈り、「乾山楽焼秘書」を模写させた。これにより乾山流陶法が堤焼に根付くことになった。時が明治に移ってからは東京に在し、陶工としてその名を馳せた。
大久保 利通 【おおくぼ としみち】 1830~1878
薩摩藩出身。明治政府の中心人物として、日本の近代国家建設のため奔走。明治9(1876)年6月の明治天皇東北御巡幸に先発し、内務卿として東北各地を視察。『大久保利通日記』によると、6月20日松島より石巻に向かい、「所々休息」し11時に石巻に着き北上川河口を視察して一泊している。鳴瀬町誌等では、大久保は土木局長 石井省一郎以下数名の技官と野蒜戸長 尾形正三郎宅に小憩の後不老山に登り、野蒜海岸(のびるかいがん)と鳴瀬河口の形状、波浪の実際について観察し、行程を延ばして石巻に向かったとしている。
有栖川宮 熾仁親王 【ありすがわのみや たるひとしんのう】 1835~95
幕末・明治時代の皇族。皇政復古の大号令により三職がおかれると総裁に就任。戊辰戦争(ぼしんせんそう)では東征大総監として江戸城の無血開城をなしとげた。明治14年明治天皇の東北巡幸に際し天皇の代巡として石巻地方、北上川流域を視察。同年8月13日野蒜築港工事視察のため野蒜着。翌日鳴瀬川河口から不老山に登り工事の状況を視察し、舟溜りから北上丸に乗船し運河を航行し、大街道橋傍に上陸し、戸塚貞輔宅に一泊。翌日登米から一関に向かい天皇一行に合流している。
(参考) こちらでも紹介しています。
セ・イ・ファン・ドールン 1837~1906
オランダ人技術者で野蒜築港の設計者。明治5年明治政府に長工師として来日し(35才)内務省に所属し、三国・鳥取・函館・桑名の諸港の防波堤工事を行う。明治11年石巻湾、松島湾を視察し、野蒜(のびる)を築港の適地と進言。野蒜・北上川間の運河の開削を計画し、北上川との水位の差にそなえ閘門(こうもん)を設ける設計とした。10月北上川の分疎の起工式に土木局長 石井省一郎と出席し祝辞を述べている。野蒜築港、北上運河、東名運河を設計したが、完成を見ずして明治13年2月任期満了で帰国した。野蒜築港は挫折したが、ドールンの功績として残っているのは安積疎水(あさかそずい)であり、猪苗代湖畔に銅像が建っている。
有栖川熾仁親王の銅像(有栖川宮記念公園)
場所:東京都港区
(セ・イ・ファン・ドールン像と安積疎水十六橋水門)
石井 省一郎 【いしい しょういちろう】 1841~1930
小倉出身。内務省土木局長として北上川と北上運河の接点となる高屋敷に設置された閘門の名の由来となる。明治11年10月8日の起工式で宮城県令 松平正直によって命名され石井閘門(いしいこうもん)となった。幕末・戊辰戦争(ぼしんせんそう)に活躍し、明治2年民部省に入り、同10年土木局長となり地方の土木行政の確立に勤めた。野蒜築港計画にともなう運河工事を推進した功績は大きい。明治17年岩手県令、同19年岩手県知事、同30年貴族議員となる。昭和5年90才で死去。
黒澤 敬徳 【くろさわ よしのり】 1838~83
野蒜築港の工事担当者。明治11年6月工事担当のため内務省から出張してきた土木局員の一人で、身分は内務五等属であった。工事の途中でドールンと早川智寛が去ったあとの現場を担当した。敬徳は幕府の料理人清水瀬兵衞の子で、明治維新後商人となり、黒澤屋吉之助と称し、黒澤を氏とした。かつて大阪城部にあって土木に精通し、内務省にはいり累進して一等属となった。野蒜築港の工事を監督し、閘門、防波堤の難工事を遂行、明治15年12年病を得て東京に帰ったが、16年2月に没した、45才であった。浜市の市街地跡地に頌徳碑が建っている。
早川 智寛 【はやかわ ともひろ】 天保15年7月24日(1844年9月6日) ~大正7年(1918年)1月22日
九州小倉藩士早川慶兵衛の長男として生まれた。長崎へ遊学、数学や外国語を学び、1873年(明治6年)に 土木寮の官吏となった。1878年(明治11年)2月、野蒜築港内務省土木局出張所(宮城県牡鹿郡蛇田村高屋敷)工事主任として赴任。北上運河の開削、石井閘門の建設に携わるが11月には内務省土木局を辞し、三重県属となる。1880年(明治13年)、宮城県属となり土木課長に就任し、1881年(明治14年)頃の運河改修を行った。早川の講話によれば、舟入堀、新堀、木曳堀が仙台藩祖伊達政宗の構想であることを偲び、各堀を総称して政宗の諡にちなみ「貞山堀」と初めて命名したという。1886年(明治19年)愛媛県書記官。1887年(明治20年)、官吏の職を離れて、早川組を設立、東北地方や北海道で土木事業を行うなどして財を成した。1891年(明治24年)、仙台商工会議所の初代会頭に就任。在任中には仙台~山形間の鉄道建設を政府に請願するなど地域開発に尽力した。1898年(明治31年)、国立銀行から株式会社に転換した七十七銀行(仙台市)の監査役に就任。このときの同銀行の専務取締役は、後の第4代仙台市長となる和達孚嘉(わだちたかよし)だった。早川は、1903年(明治36年)4月2日~1907年(明治40年)7月1日まで第4代仙台市長を務めた。仙台市若林区新寺の松音寺には、早川の墓所と記念碑がある。
細谷 十太夫直英 【ほそや じゅうだゆうなおひで】 1845~1907
仙台藩士。武一郎とも称し、鴉仙と号した。禄高50石の大番士で、戊辰戦争に際し衝撃隊を率いて活躍。衝撃隊は黒装束をまとっていたことから烏組とも称し、藩長軍に恐れられた。明治元年9月下旬、石巻地方に布陣した旧幕府軍と矢本まで迫ってきた藩長軍との一触即発の危機を迎えたとき、十太夫は旧幕府軍を説得し、米薪塩油などを親友の毛利理兵衞に願い調達して与え、石巻から去らせ石巻の住民と町を戦火から救った。明治13年運河開削に伴い、牡鹿が原が開墾可能となったので、旧仙台藩士を救済するために士族開墾場が開かれ初代代表となった。
宮澤 賢治 【みやざわ けんじ】 1896~1933
大正・昭和初期の詩人・童話作家。岩手県生まれ。盛岡高等農林学校卒。農民指導のかたわら宇宙感覚をもつ想像力豊かな詩・童謡を多数発表した。代表作に『春と修羅』『風の又三郎』『銀河鉄道の夜』など。賢治は明治45年5年27日盛岡中学4年の修学旅行に北上川を川蒸気船で下り、石巻の日和山から生まれて初めて海を見て感動をうけている。その歌碑が日和山に建てられている。賢治死後3年が経った昭和11年(1936年)に建立された『雨ニモマケズ』碑(花巻市)は、石巻産の稲井石を使用。
※宮澤賢治記念館公式Webサイト → こちら
※宮澤賢治学会イーハトーブセンター → こちら
※宮澤賢治の詩の世界 → こちら
原 敬 【はら たかし】 1856~1921
明治・大正時代の政治家。盛岡藩士の家に生まれる。新聞記者を経て官僚となり、のち立憲政友会の創立に参加し、大正7年政友会を率いて内閣を組織し首相となり、「平民宰相」とよばれたが、同10年東京駅頭で暗殺された。原敬は、新聞記者時代の明治14年5月から10月にかけて東北の産業を視察し開拓地、港湾などをくまなく歩いている。8月三陸から南下し、気仙沼、志津川、柳津から北上川まで船で下ろうとしたが、渇水のため船は動かず、徒歩で石巻に着いた。ここで石巻港の荒廃を指摘。9月7日野につき、土木局の黒沢敬徳を訪ね、築港について説明を受けている。
司馬 遼太郎 【しば りょうたろう】 1923~1996
大阪府生まれ。本名は福田定一(ふくだていいち)。ペンネームは「(史家の)司馬遷に遼(はるか)に及ばず」という意味。60年「梟の城」で直木賞受賞。75年芸術院恩賜賞受賞。93年文化勲章受章。昭和60年2月25日に貞山堀を訪れている。それが『街道をゆく26 嵯峨散歩、仙台・石巻』で紹介されている。「ともかくこれほどの美しさでいまなお保たれていることに、この県への畏敬を持った・・・宮城県がこれを観光として宣伝することなく、だまって保存につとめていることは、水や土手のうつくしさでよくわかる。仙台藩の後身らしく、武骨で教養のある風儀が、そのことで察せられるのである。」(出典:同著)
※司馬遼太郎記念館公式Webサイト → こちら