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​9-(1)-④ 川村孫兵衛翁の墓所

所在地: 宮城県石巻市門脇字中浦15

     (真言宗智山派 普誓寺の地内の墓地からは少し離れた場所にある。)

(向かって左側が川村孫兵衛翁の墓石、右は妻の墓石)

 川村孫兵衛重吉夫妻の墓碑

 

 この墓所はその昔川村孫兵衛重吉屋敷母屋の鬼門に当たり川  村家代々の墓所として十四代までの川村家累代の墓地である。
 初代川村孫兵衛重吉は、天正三年正月(一五七六年)長州阿

武郡に生れ、慶長の初年(一五九六年)伊達政宗公に仕え、宮

城郡に一時居を定めたが北上川河口付替工事のため当地に来て

墳墓の地を此所に定め、政宗公、忠宗公の二世に仕え慶安元年

(一六四八年)十月廿七日、七十四才で当地で没した、墓碑の

法名は普徹聖公居士、妙徹禅定尼。と墓石に刻まれているが後

年普誓寺普徹聖公居士、龍観院心源妙徹大姉。と追号された。
普誓寺の開山は承應二年(一六五四年)で川村家二代目孫兵衛

元吉が義父重吉の遺言で重吉の居宅を旧寺跡に移して建てられ

た菩提寺である。川村孫兵衛重吉は幼名を万五郎と言い珠算、

和算の天賦にすぐれ、初めは毛利輝元に仕えたが、慶長五年関

が原の合戦後近江の国、蒲生の地で天文、採鉱、土木等に長じ

た重吉の天分を政宗公の知るところとなり主従の約を結んで仙

台へ来たのが重吉二十五、六歳の頃と言われる。その時、任国

への土産にと明石の黒松の種三駄を持参し海岸に防潮の林とし

たり亘理、鳥の海間の運河を手始めに仙台六郷の堰、冠川の疏

通、孫兵衛堀若林城外壕、品井沼の潜穴、江戸四ッ谷上水、等

の土木工事を手にがけ、特に元和九年(一六二三年)に着手し

た北上川河口付替工事は孫兵衛重吉の心血を注いだ畢生の、大

事業であった。
 追波湾を河口としていた北上川を、江合川、迫川の二川を桃

生郡神取の地で北上本流に合わせ鹿の又より石巻まで河道を掘

り稲井真野川と共に石巻湾に流れを変えて石巻港を実現させた

のが寛永三年(一六二七年)の事であった。孫兵衛夫妻の背後

にある樒の古木は重吉翁埋葬のおりの記念樹である。
   平成三年八月
     川村孫兵衛翁ゆかりの施設等環境整備協賛会

注1) 兵衛の最初の領地は名取郡早股村(現岩沼市玉浦)。

注2) 孫兵衛が政宗に仕えたのは文禄年間にさかのぼるとの説あり。

注3) 「亘理、鳥の海間の運河」とあるが、阿武隈川と鳥の海間の水路

    か? 

注4) 冠川:現在の七北田川。慶長年間(1596~1615年)に流路を湊

    浜(現七ヶ浜町)から蒲生(現仙台市)に切り替え。

注5) 品井沼の潜穴の工事は元禄6年~元禄11年(1693~1698年)

    で、孫兵衛重吉の死後。なお、享保15年(1731年)~文久元年

    (1861年)にかけて6回にわたる排水路改修が行われている。

注6) 江戸四ツ谷上水とは、元和6(1620)年開削の平川放水路(仙台

    藩が工事したことから仙台堀と呼ばれた。現神田川)のことか?   

    ※仙台城下の四ツ谷用水は、慶長6年(1601年)、川村孫兵衛重

​     吉によって開削が開始​とする説もある​が定かではない。

碑には『川村孫兵衛翁御菩提寺碑』と刻まれている(普誓寺の山門を入って左側すぐのところ)。 

① 川村孫兵衛重吉之像  → こちら

② 住吉神社と縄張神社  →  こちら

③ 重吉神社       →  こちら

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