貞山・北上・東名運河事典
ていざん・きたかみ・とうな
11-(4)-①-a-(c) 歌枕『雄島』
雄島は、歌枕の島としても有名である。
見せばやなをじまのあまの袖だにも濡れにぞ濡れし色はかはらず (殷富門院大輔「千載884」)
(涙で色が変わった私の袖をあなたに見せたいものです。松島にある雄島の漁師の袖でさえ、濡れに濡れても色は変わらないというのに。)
この歌は小倉百人一首にも採用されており、源重之の次の歌を本歌として詠まれたものである。
松島やをじまの磯にあさりせし海人の袖こそかくはぬれしか (源重之「後拾遺827」)
(松島の雄島の磯で漁をしていた漁師の袖は、このように濡れていたなあ。 私は恋の涙でこんなに袖を濡らしているけれど。)
心ある雄島の海人の袂かな月宿れとは濡れぬものから (宮内卿「新古今399」)
(風流を解する雄島の海人の袂よ。月の光を宿すようにと思ってわざと濡れたわけではないのに。)
ゆく年を雄島の海人の濡れ衣重ねて袖に浪やかくらむ (藤原有家「新古今704」)
(ゆく年を惜しんでいる雄島の海人の潮に濡れた衣は、今また重ねてその袖に、別の涙の波をかけていることであろう。)
立ちかへり又も来てみむ松島や雄島の苫屋浪にあらすな (藤原俊成「新古今933」)
(寄せては返す波のように、きっとまた戻ってきてみよう。それまで雄島の苫屋を波で荒れさせないでいてほしい。)
秋の夜の月や雄島の海人のはら明けかた近き沖のつり船 (藤原家隆「新古今403」)
(秋の夜の月が惜しいからか、雄島の海人は空の明けがたに釣舟で沖に出ているよ。)
松がねの雄島が磯の小夜枕いたくな濡れそ海人の袖かは (式子内親王「新古今948」)
(枕として旅寝する、松島の雄島の磯の松の根よ。ひどく濡れないでおくれ、海人の袖ではないのだから。)
月をさへ雄島の海人の苫屋にや心ありあけに千鳥なくらん (甲斐守明茂朝臣「仙洞歌合」)
(月までもいとおしく思われる、雄島の海人の苫屋であるからだろうか。風流を解する心ありげに有明の月に千鳥が鳴いている。)
うき名のみ(又は"うきなみの")雄島の海人の濡れ衣濡るとな言ひそ朽ちは果つとも (源実朝「続後撰749」「金槐集29401」)
(海面の浮き波は、雄島の漁夫の衣を濡らす。だがそのように私も泣き濡れているなどとは言わないでほしい。たとえ恋焦がれて死のうと
も。)
袖ぞ今は雄島の海士の漁りせん干さぬたぐいに思ひけるかな (藤原定家「拾遺愚草9445」)
(私の袖は、いまはそこで雄島の漁師も漁をするほど涙を海のように湛えている。それなのに、涙が乾かない仲間だと思っていたなあ。)
松島や雄島か崎の夕霞たなびきわたせ海人のたくなは (前参議親隆「新勅撰12」)
(松島の雄島の崎に夕霞がたなびくなか、漁師が網の縄を引いているよ。)
浪かゝる雄島か磯のかぢ枕こゝろしてふけ八重のしほ風 (藤原有家「新続古今1004」)
(波の音を聞きながら雄島の磯で船とまりをしているよ。幾重にも重なった波のなたから吹く潮風よ、静かにしておくれ。)
つれなくもいまは何をか松島やをしまぬ老の波をかさねて (前題僧正定助「新続古今1946」)
(ままならないいま、何を待つことも惜しむこともないよ。老いの年を重ねてきたのだから。)
注:松島=待つ、雄島=惜しむ と云い掛けたもの。
<補記>
松島町史では次のように記載されている。
-「雄島」という固有名詞が一般的に知られるようになったのは、頼賢の碑が建立された14世紀頃からではないかと推定されている。碑文には
「見仏上人が御島の妙覚庵に住んで、法華経を誦し、鳥羽院から本像、器物を賜ったとあり、頼賢は見仏の再来とあがめられた。」とあり、
「御島」という名前が見仏上人の頃に使われていたことが知られる。
こうしたことから、平安時代に多く詠まれた「松島のをじま」は、固有名詞の「雄島」を特定して詠んだものではなく、松島湾内に浮かぶ「小
島」を「をじま」として詠んだものであろうといわれている。-(松島町史)
<参考資料>
『おくのほそ道』
『松島町史』
『松島町史 通史編Ⅱ』 「古代・中世の松島寺」 著:入間田宣夫
『季刊 東北学 第20号 2009年夏』「中世松島の景観」 著:入間田宣夫 発行:東北芸術工科大学東北文化研究センター
『みちのくの和歌(うた)遥かなり』 著:伊達宗弘 発行:踏青社 1998年8月20日初版発行